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達磨大師とは・・・

禅宗の開祖とされており、南インドの第三王国の王子として生まれ、

5世紀後半から6世紀前半に中国で活躍した仏教の僧侶である。

『景德傳燈錄』からすると、釈迦から数えて28代目とされている。

確認されているだけで曇林、慧可の弟子がおり、彼の宗派は当初楞伽宗と呼ばれた。 

彼の事績、言行を記録した語録とされるものに『二入四行論』などがある。

この『二入四行論』が達磨に関する最も古い語録で達磨伝説の原型であるとともに達磨の思想をも伝えている。 


当時複雑な哲学論争に偏向し、お釈迦様の説いた教えの解釈の違いから派閥の分裂も起こり

衰退の道をたどっていた仏教界に瞑想(ディヤーナ Dhyana)を通じて人間本来の仏性に目覚め、

本来の成仏の道に立ち帰るよう主張した。「禅」とはディヤーナの中国音表記である。

 

普通元年(520年)インドから中国南方へ布教しに渡海する。

当時、中国は南北朝に分かれていて、南朝は梁がおさめていた。

『景德傳燈錄』では梁の武帝は仏教を厚く信仰しており、天竺から来た高僧を喜んで迎えた。

 

梁の武帝は尋ねた、「私は即位以来、記すことができないほどの多くの寺を造り、

経典を写させ、国民が僧尼となることを許可してきた。どのような功徳があるでしょうか。」

達磨大師は答えた、「全て無功徳」と。

武帝は尋ねた、「なんで功徳が無いと云うのでしょうか。」

師は答えた、「あなたが尋ねることは人間界、天上界における小さな果報であり、

煩悩のもとである。たしかに功徳ある形は影のようにあるようだが、真がない。」

武帝は尋ねた、「では真の功徳とはなんでしょうか。」

師は答えた、「汚れのない智慧をそなえた完全な本質は空寂そのものである。

これこそが功徳であり、他に何があろうか」と。

 

武帝は達磨の答を喜ばなかった。 達磨は縁がなかったと思い、北魏に向かった。 

後に武帝は後悔し、人を使わして達磨を呼び戻そうとしたができなかった。

 

洛陽郊外の嵩山少林寺にて石の壁に九年向かい座禅したといわれる。

これは彼の壁観を誤解してできた伝説であると言う説もある。観は達磨の宗旨の特徴をなしており、

「壁となって観ること」 即ち「壁のように動ぜぬ境地で真理を観ずる禅」のことである。 

これは後の確立した中国禅において、六祖慧能の言葉とされる坐禅の定義などに継承されている。 

 

大通2年12月9日(529年1月4日)神光という僧侶が自分の臂を切り取って決意を示し、 

入門を求めた。達磨は彼の入門を認め、名を慧可と改めた。 

この慧可が禅宗の第二祖である。

以後、中国に禅宗が広まったとされる。 

 

永安元年10月5日(528年11月2日)に150歳で遷化したとされる。

一説には達磨の高名を羨んだ菩提流支と光統律師に毒殺されたともいう。

 

その没後には道教の尸解に類した後日譚が伝わるが、中国の高僧伝にはしばしば見られる話である。

それは当時、北魏の使者として西域からの帰途にあった宋雲が

パミール高原で達磨に出会ったというものである。 

その時、達磨は一隻履、つまり草履を片方だけを手にしていたという。 

宋雲が「どこへ行かれるのか」と問うた所「西天へと行く」と答え、

また「あなたの主君はすでにみまかっている」と伝えたというのである。

帰朝した宋雲は、孝明帝の崩御を知る。

孝荘帝が達磨の墓を掘らせると、棺の中には一隻履のみが残されていたという。